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いつも人の顔色伺いながら生きてる、めちゃくちゃダサい
そんなことをしない人間に憧れてるからこそ、倍ダサく見える
どこで間違えたんだろう、全部か
誰かに唐突にあっさり殺されないかな
それかみんな揃って死んじゃえばいいのに
それならなんにも思い残すことは無いのに
やっぱりどうしても周りの人に嫌われたくなくて。だってアイデンティティを周りの人の存在に任せてるから、周りの人たちがいなくなれば、自分はたちまち消えてしまう。自己矛盾、理想と現実の間で長いことウロウロしている。
そういう意味では積極的に自分自身を愛しているナルシストの方が、生きる意味を探すのは楽なんだろうな。
なんならベクトルが違うとはいえ自分のことばかり考えてるから、もしかして自分もナルシストなのかもな。めちゃくちゃきしょいな
長い時間かけて集めたものは卑屈さばかりだった。
生きていて申し訳ないという気持ちはあるものの、なんだかんだ生き長らえている今のぬるま湯から出る勇気はない。
人格形成しくじりまくってる。普通の家庭で普通に育てられてきたのにな、なんでだろう。
ずっと周りに流されて生きてきて、当たり前だけどこの歳になったらちゃんと褒められることもちゃんと叱られることも無くなった。自分を褒めることは無いけれど、自分を責めることばかり増えた。精神の自傷行為なら心得てしまった。
平凡な人間が平凡さを憂うなんて平凡すぎてなんの面白みもないから、誰に話したところで平凡でつまらない話の種にしかならない。
周りの人はみんな良いところやすごいところがあるから、平凡な悩みは日常のホコリにしかならないのだろうか。いい人はたくさんのいい人に囲まれているものだから、くそつまらない自分は自分の脳内で消化不良になって、吐き出しどころが見つからずに人目のつかないところで吐き散らしている。
みんな強い人ばかりで、死ぬほど弱い自分が情けなくなる。もしかしたら弱いところがあるかもしれないけれど、そんなところをおくびにも出さず生きてるから十分強い。というより、誰も自分に心を開いていないから出さないのか。誰にも受け入れられてないんだろうな。
人に嫌われるのを恐れるがあまり、嫌われはしないものの、求められることが無いのか。人を信じれない人間になった結果、誰からも信じられず生きているのか。
思い返せばずっとそうなのかもしれない。
今更気づいてしまった。永久に気づかなければ幸せだったのかもしれない。
今になって気づいたから、普通の人にはあるはずのものを探し続けてるのか。
今になって気づいたから、元からそんなものないのに探し続けてるのか。
誰からも必要とされていないのなら、今のうちに消えるのが吉かもしれない。でも踏み出す力も勇気もない。
自分で思うけれど、人を信じる信じない以前にこんなきもい人間がいたら誰も寄りつかんわな
また卑屈になってる。けどまあいつものことか
無題
ずーーーーっと自分が何をしてるのかわからなくなる、というか分かってない。
別に何を生きがいにしてるとか、何になりたくて生きてるみたいな、でかい話じゃなくていいんだよ
薄明るい日の光に包まれたまま死んでしまいたい
カスみたいな人間性のままこの歳まで生きてきたから、ここからもっとカスになりながら死に近づいていくんだろう
いつまで自己嫌悪で夜を埋める日々を送るんだよ、思春期のガキかよと思ってしまう
好きなチームの勝利も、嫌になるほどのドライブも、好きな音楽も、CBDもタバコも、自身の無力さを救うわけでは無い。
今までどうやって生きてきたのか本当に不思議になる
さんざん自己嫌悪した挙句、自分で自分の命も止められないゴミみたいな自分を呪うだけ
人を信じられないがゆえに、他人からの評価なんて何にもならない
容姿もメンタリティもコンプレックスだらけで、
それでも周りのいい人たちからは嫌われたくなくて、
そんな時に限って自分の醜い部分が顔を出して、
回り回って自分が最大級に情けなくなる。
数少ない周りの人たちに救われながら生きてきたのに、自分自身が誰かを受け入れたり救ったりできたこともなく、虚勢を張り態度ばかりでかくなるものの、存在価値だけは小さくなっていく。
才能どころか人に自慢出来るものさえなくて、足元に散らばってる過去の栄光ばかり拾い上げて、もう新しいものにチャレンジする余裕はないと言い訳し続けている。
めちゃくちゃに弱い人間だからこんなところに書いて、何とか発散しているけれど、自分の周囲の人たちは自己嫌悪に陥ったりしないのかな。
あったとしても、こんな人間に話すわけがないのか
翻訳されたXXXTENTACIONのVlogを繰り返し見ているけれど、「自分の周りの人たちが、なにか決断する時に、いつも自分じゃない何かを選ぶ」と言っていた。
彼ほど何か成し遂げたわけでもないし、大勢の人が周りにいる訳でもないけれど、受け入れられてて、受け入れている人間がいるのだろうか。
〜よりマシとか、〜よりは出来るとか、そんな話じゃなくて、自分が無理なものだから、ずっと無理なんだよ
外野がどう言おうと、自分が受け入れられないんだから無理なんだよ
自分で自分の機嫌すらとれず、周りに吐き散らして、あとからいつも後悔する、うんざりする。
受け入れられない自分が生きていることが、無理だ。
なんで今まで生きてきたのか、どうやって生きてきたのかと最初の問いに戻る。
生きるとはこういうことなのか?
整理整頓
めずらしく気分も体調も落ち込んでいないのに書いてる.
毎回毎回誰かに見せるために書いてるわけではない.文字に起こしたり,文字に起こす前に時間をかけて考えを整理することに重きを置いているから,誰かが読むだけならまだしも,感想を言われるとあまりの駄文ゆえにこっぱずかしくなる.ダサくてイタい文章だからこそ,自分の戒めにしてきたということもある.
今はすべきことが山積みになっているが比較的元気だから,あれこれ考える余裕がある.
恐ろしいほど狭いながらも,一人で住む分にはそこそこ満足しているアパートを,より満足させられるにはどうすればいいかとか.
小さくても構わないので本棚を欲しいなとずっと思っている.部屋の広さに不釣り合いなサイズのテレビの下に,テレビ台がわりのカラーボックスからあふれ出るほどの本の行き場を,いい加減つくらないとなと思って長い時間経っている.本を読むのに熱中していたころはかなり前になるが,あれはスマホから見える情報量の多さを知らない頃だった気がする.それでも本を買いたくなるのは,かつての本を読む楽しさを自分勝手に求めているだけかもしれない.今はスマホを開く理由や習慣ばかりつけている自分が情けなくなる.
本棚ひとつ買うほどのスペースもないから,何か買う前に何かを捨てるという順序をふまなければならない.自分でこだわって買ったものや,誰かにもらったものを捨てるのが非常に苦手だ.物に対する決断が非常に長い上,もらったものに関しては,くれた人の気持ちを思うと申し訳なくなってしまう.たぶん死ぬまで優柔不断でお人好しなんだろうな.
写真に撮ればいいという考えがあるが,写真を見返すことがかなり少ないことにはもう気づいている.あちこち旅行に行ったときにカメラで大量に写真を撮るが,「ファインダーを覗いて撮るという行為が楽しい」で終わってしまうため,SDカードの中身もPCのフォルダも増えるだけでアクセスした覚えがかなり少ない.誰かに見せたり,アカウントのアイコンにするとかの使い道など何も考えていないからこそ,見返すことが少ないのかもしれないが,自分を表現するとか未知の理由のために写真を撮っていないからこれはこれでいいのかもしれない.自分に酔っているという言葉は,大嫌いな言葉なのでそうならないように慎重に生きているが,他人から見れば酔っているように見えるかもしれない.大層醜い人間だろう.
バカでかいコルクボードを買って気に入った写真を貼るという考えもあるが,ここでも優柔不断でお人好しな自分が顔を出してきて,どの写真を見ても撮ったときの記憶を思い出すし,だからこそ選びきれない.だいたいバカでかいコルクボードを置く場所すらない.
山積みになっているCDや,好きなアーティストのポスターもどうにかしなければならない.本当はスマホを眺めるよりも,自分の好き・好きだったジャンルや物事の情報があふれている自分の家を整理しているほうが幸せな時間かもしれない.よく言う,大切なものは最も身近にある好例だろう.
それでもスマホを眺めてまどろんでしまうのは,あまりにも手軽だからだろうな.好きなものに情熱を注ぐには想像以上に十分な気力・体力を必要とする.スマホを見ると好きでもない情報も流れ込んでくるが,それ自身が良いアクセントになっているのだろう.素面の時にはくだらないと言って手放すことでも,それにハマっている間は気づけないのか.自分を見る自分にずっと縛られて生きているが,肝心な時に働かないのは大いなる欠陥だ.
日々の生活でいえば,最近は好きなスポーツを見るのに時間が足りないという,うれしい悲鳴があがっている.見ているスポーツはいくつかあるが,すべてのオフシーズンがかぶらないのは非常に運がいい.でもそれにのめりこめばのめりこむほどに,戦術・戦略等を知れば知るほどに「なにが起きているのかよくわからないが,とにかくすごいことが起きている.なにはともあれ自分の応援しているチームに良い結果をもたらしているのが嬉しい」という純粋に喜ぶ感情を噛みしめる時間が少し減っている気がして,困ってしまう.「戦術は香辛料」という言葉があるが,見ている目的をはき違えている気がするし,同じ趣味をもつ人間が身近にいないため,相談はおろか話し込むこともできないでいる.でも知識を得ることに関してはただの一般人の趣味レベルであり,明確な目標がないため,これはこれでいいのかもしれない.
趣味が増えれば増えるほど,得たい情報が増えるからこそスマホにいっぱい頼って生きてしまうんだろうな.
家の中の光景も自分とスマホとの関係性も同じで,何をどうかすれば全部解決するなんてほど甘くないし,うまくいかないのだ.
トラッシュ
時を戻す魔法があるなら、いつに戻るだろうか。
なにか大きなチャレンジが待ち構えていたあの時、失敗したからこそもう一度戻ってやり直したいかつての時、「些細な」というのは簡単でも必ず別の選択肢があったはずの瞬間
個人的にはどんな時でさえ戻りたくはない。今の人間関係が最もいいと思っているし、今までの選択の連続がなければ同じところにたどり着けるはずがなかったからだ。
元気な時には、たらればの話なんかしてもしょうがねぇから、今現在の場所から前に進むしかねえだろ。と高らかに宣言し、だが少し後ろを見ながら歩みを進めていく。
力強い気力や心の余裕がない時でもだいたい同じ。違うのは宣言した後、必ず立ち止まって、そしてある一定時間は確実に動けなくなる。前どころか後ろも見れない、足元を虚ろな目で眺めているタイミングがある。
あれこれ考えててもなにも進まないのは分かってる。
まともな思考してりゃ、普通の人なら、こんなところでつまずかないのも分かってる。
ちゃんと自分の足で歩かなきゃならんのも分かってる。
ちゃんと地に足をつけた生き方をしなければならないと分かってる。
分かってるつもりで、自分に何度も何度も言い聞かせながら、地に足をつけて生きているつもりだった。でも足をつける場所も、足自体も実は全部間違えてたかもしれない。でも、ここまできたら、それが正しいものとして認識すること、そしてそれを正しいものにしていかなければならない。たとえそれが本当に間違っていたとしても、強引に推し進めていくしか残された道は無いのだ。解決できるのは時を戻す魔法だけかもしれない。
SNSやブログ等で頻繁に目に付く、抱負や宣言、感謝、愚痴や弱みなんて全部噓みたいなもんなんだろうな
指先だけで自分自身に色「のようなもの」を加えられるものなんて、本当に深く、よく考え、精査されたものなわけが無い。
よく「絶対に幸せになるぞ」と宣言交じりにつぶやく人がいるけど、自分は首がはねられようとも誰にも言いたくない。
好きな人の言動を真似するという、無個性のカスみたいなことをよくしてるから、1人の時はかつてのTop Gearメンバーのリチャードハモンドが、自作キャンピングカーで指を挟んだ時に「You brave…」とか細い声で自身を鼓舞したシーンを頭の中で思い出す。
もうこの年齢になると励ましてくれる人なんていない、いたとしても人を信じれない自分は中身半分に聞いているだろう。もはや「大丈夫、大丈夫」と自分を励ますしかないんだ。
もう全部ひっくるめて未来への、ハッピーエンドへの伏線だと割り切るしかないんだよとTwitterで見たのが、いつまでも忘れられない。人生というファッキン長いゲームでは、本気で「冗談だろ」と目を背けたくなるようなことなたくさんある。こんな人生が物語なら、とんだ冗談だ。悪い方の冗談だ。
なんにも色がついてない、からっぽの箱なら、どんな色も塗れるしどんなものも詰め込める。でも、その色を塗り、そして何かを入れる人間自体が成長していなければ、なんにもならない。
ずーっと前からわかってる。こんなことというか、自尊心とか自己肯定感とかで悩むのはこんな年齢の人間がするようなもんじゃないんだよ。
だれもそんな期待をしていないとわかっていながら、そしてほんの少しずつとはいえ、いつか来る人生の終わりに歩みを進め続けている間に、自分の周囲をさばききれないほどの情報量が流れていき、自分とさして年齢も変わらない、なんなら何歳も下の人間が、とんでもないことを成し遂げたりしている。
きっと彼彼女らは、一般人の想像なんてはるか及ばないほど、筆舌に尽くしがたい経験や挫折、挑戦をしてきたのだろう。自分たちは暖かい部屋でのうのうと社会や環境の変化を、高みの見物をしている気分で眺めていたのだろう。
そして今更、自身が何者でもないし、何者にもなれやしないという当たり前のことが、脳だか心だか精神だかのどこかで受け入れられていない自分が世界一みじめになる。
絶対ちゃんと、自分の足で立って生きるんだ。何にもない人間だからこそ、自分一人で立てるぐらいの力がないと、自分を見ている自分が情けなくなる。
人並みの挫折と挑戦と自尊心を持ち合わせて、ちゃんと周りの人を頼れて、心を開き、しっかり自分の正義を持った、明るくまともな人間になりたい。
ありがたいことに、こんな人になりたいな、なんて人が周囲にたくさんいるからこそ、全然そんな風になれていない自分にまた落胆してしまう。周囲の人間は比較対象ではないなんて、わかってるけどわかってない自分がいる。
オードリー若林は、ネガティブを止めるのは没頭だと言っていた。自分自身や内面に目を向けるのではなく、外に目を向けることが必要とも書いていた。上岡龍太郎は外に出る、本を読む、人と会って喋ることが重要だと言っていた。
全部全部分かってるんだ、分かりきってることなんだ。たとえどんな靴を履いていても、たとえ裸足であろうとも足を交互に前に出せば進めることは分かってるんだ。でもどうしても前に進めない。
残酷なことに、憧れている、なりたいと思う人間には、まずなれやしない。
それでも憧れている、なりたいと思う人間の言葉ぐらいしか信じれない。
歩き方も、なんなら立ち上がり方すら不安だ。
誰かに支えてもらう、助けてもらうというのが一番簡単な解決方法かもしれない。でもほぼ人間不信に手足が生えただけの人間な上に、そんな方法でしか立っていられない自分に辟易する。そんなやわなやり方でしか生きられない人間にだけはなりたくない。
みんなどうやって生きているんだろう。どうやってつい先日終わった一年を生き延びたのだろうか。自分自身どうやって生き延びたかがわかってねぇ自分は、たとえそれを聞いてもなににも活かせず腐らすんだろうな。
こんなところで弱音を吐き出すような、カスみたいな人間になりたくなかった。でも弱音の吐き方として、飲み込む以外に自分でもできる方法、そして自分でもギリ許せる方法がこれぐらいしか見つかっていない。
こんな面倒くさい人間にはなりたくなかった。元気な時に自分みたいな人間を見たら、鼻で笑って脇をすり抜けていくだろう。たとえ仲のいい友人であったとしても、まともなふりをしているカスの自分は、適当な上っ面だけの対応しかしないかもしれない。
変なところで変な風に意固地な自分は、こんな生き方自体が「生きるのが下手くそ」に分類されるのは十分承知している。なんなら「生きるのが上手い」人間が嫌いだ。
自分で自分に「なんでこんなことで悩んでるんだろう」と悲しくなる。本当に悲しくなる。
悲しいと言っても、別に泣きついたりしないし、誰かに迷惑をかけるほどお酒を飲むことも無い。毎日こなすべき家事をいくつかサボって、繰り返し見ている動画や、どうにか今聞ける音楽を流して絶望するだけ。
あーあって。
実家に住んでる時、よく母親が独り言でばっかじゃないのと呟いていた。その度に「なんかやらかしたかな」と自分の身を案じていたが、今ならその気持ちが少しだけわかる気がする。誰かに八つ当たりするわけではない。自分の中で巡り巡った暗い気持ちが、なにかに発散できるはずもなく、独り言として体の外に出ていく。
せめて、せめて自分の周りの、自分の好きな人たちの前では何事もないように明るくいたい。
心を許してくれている相手ほど、こんな振る舞いが悲しさを生むことは十分承知している。でもこれぐらいの我儘は許されたい。
一体何を得たんだ。中途半端に膨れ上がった自己顕示欲と承認欲求、強くなった偏見と卑屈さ。自分を諦めさせる力ばかり強くなった。
おかしいな、ちゃんと「I DECIDED TO LIVE ALONE」って書かれたiPhoneケースを使い続けてるのにな。
おかしいな、このブログの内容全部同じことしか書いてないな、毎回これからは頑張るみたいなスタンスで終わってるのにな。
おかしいな、ずーっとおかしいな
時間
ここ最近かなり規則的な生活をしている。
インスタントスープだけを1食と数えられるならば、一応1日3食摂っている。1時までには床に就いているし、昼過ぎまで眠りこけていたことも無い。
唯一大学もアルバイトもない日曜日には、気の許せる人と共に出かけたり、運動をしている。
本当に何もせず、小さな画面をいじって終わる1日などない。
だからといって、予定に追われているわけでもない。毎日の生活の中にも自由時間があるから、好きなスポーツを見たり、あてもなくYouTubeを見ているだけの時間もある。
特段容姿にこだわりは無いが、月に1回は同じ所で同じ人に髪を切ってもらってる。
一時の自分から見ればかなり充実した日々を送っている。というより規則的な日々は、周期的に陥っていた自己肯定感の低さによる悩みを、解決できるものだと思っていた。
別に何かが足りないわけではない。しかしなぜか、そしていつからか、「何か」が頭をもたげている。
スポーツの世界では、「難しい試合になる」とよく言う。それは選手の心を引きしめたり、相手へのリスペクトを含んだり、本当に難敵と対峙する時であったりである。
そんな高尚なものではないが、まさに難しい日々を送っている。はっきりと言葉に表せないが、一日が終わって家に着き、家の鍵を置いた時に、どことなく「難しい一日になったな」という思いが湧き上がる。
もう年齢だけ見ればいい大人だと思うので、こんな漠然とした悩みで一々立ち止まらずに、毎日の食器洗いの泡と共に流してしまえばいいのだろう。でも、なまじ自由な時間がある分考えこむ時間が増える。
個人的には、世間話の時に自分から時事の話題を振るのも、簡単に人に弱音を吐くのも、こうやって文章にして見せてるのもめちゃくちゃダサいと思っている。どうせ朝になって振り返ればだっせえなって気づく。
弱音自体、人によって感じ方は違うからこそ、自分の弱音のランクが周りの人より低いと感じてなかなか言えない。周りの人間は知らない間に乗り越えてるものを、簡単に乗り越えられていない気がする。
いづれにせよ自分で解決すべき問題なことは十分に理解している。これまでと根本的に違うのは、「何に」悩んでいるかが分からないことである。
金や将来、人間関係、日々もっとすべきこと、考えてるだけでは解決しないこと、もう何者にもなれないこと
人生は長く、非常に難しい
夏
毎日決まった時間になれば気怠くも無理矢理体を起こしたり、目覚まし時計のがなりたてる音の前に目覚めて済ませたかったことを済ませたりして生きてる。
数日ぶりに陽の高い時間に外に出たら、連日天気がぶっ壊れてると叫ばれてる意味がなんとなくわかった。息がしにくいとかすぐに汗が吹きだしてくるとかじゃない。ひたすらに熱い。暑いではない。日光に頭の先から地面に向かって押し付けられてる感覚がする。既に足りないと思ってるのにこれ以上身長を縮めないでくれ。あんまり外に長居すると体に毒だと、理性が警鐘を鳴らす前に体が避けてる感じがする。
昔から妙に何かを食べたくなったら体がそれを求めてると言われて育ってきた。この体からの反応を見るに、不健康な生活を送ってしまってると思っていた自分の体はなんだかんだまだ健康だな、捨てたもんじゃないなと現実逃避してしまう。
腕に挟んだ水筒が、中身を飲む間に体温を吸収して生ぬるくなった。
一人暮らしを始めてから、自分の生き方、立ち振る舞い方にかなり頭と時間を使った。未だに考える時間が必要だ。だがこれは必要だと漠然と思う。月に1回でも、年に1回でも自分の目標や立ち位置や現状を、時間をかけてでも客観的に考えこまなければならない。自分で自分を律せない人間なのは百も承知だ。もう20年以上自分と向き合って生きてきたから、自分を憐れむ時間はある程度使いこんだ。だからもう前に進んでいかなければならない。
人は後悔をする。それはかつてのあの時を思い起こせるからだ。そしてそれは決まって美しく見えてしまう、立ち向かってくる現実を避けて眠りにつくこともある。
現在と過去、現実と夢は生きていく上で欠かせない。どんなものにも表と裏は確かにある。
覚めてほしくないと心底願うほどに美しい夢があれば、夢ならば覚めてくれと心底願うほどに醜く見にくい現実もある。
悲しいことに美しい夢ばかり覚えてるから、もう一度、もう一度と現実から逃げて眠りにつく。
しかし、大好きなQB、カーソンパーマーは「時間を巻き戻す魔法なんて存在しない」と言った。だからこそ目覚めて、今のこの一瞬、そして少し先を見据えなければならない。
こんなことに気づくのは世間の人間からしたらかなり遅いものだろう。しかし自分は自分だ。自分の中の危機感が大慌てしない限りは何事も本気では前に進ませられないことも分かってる。これもまた自分だ。「俺は俺をやるだけ」、Jin doggの曲の中の大好きな歌詞だ
舐達麻の曲でBADSAIKUSHが「言われ尽くされてるそんな言葉が核となる人生はクソだ」と言った。かなり胸に来るものがあった。少しイタい言葉を使うなら、完璧に食らった。
だが、そんな感想で終わらすのはあまりにも野暮で、無造作だ。
酒もタバコも音楽も、誰かの名言も、励ましの言葉も自分を救うことは無かった。それを受けた自分の新たな解釈や考えの広がりが自分を救うのだ。
だからこそ、くそな人生ならくそな人生なりに、凡庸なら凡庸なりに立ち止まってる場合では無いのだ。
また少しだけ自分がしなやかに固まった気がした。
幸せ
人生は選択の連続であり、思い通りではないことの連続でもある
割り箸は綺麗に割れないし
しょっちゅう物は無くすし
肝心な時に限って寝坊するし
車庫入れでは傾くし
ターボライターは使い切る前に壊れるし
会いたい人には会えないくせに中途半端な知り合いとはたくさんすれ違うし
好きだった人に限ってうまくいかなかったし
見栄と虚勢ばかり張ってるし
自分が欲しいと望む才能は自分以外の誰かが持ってるし
世の中の全てのものが自分に悪意を持ってるように感じてしまう
悪意といえば、オードリー若林がANNでたまに話す人間の暗い内面的な話が好きで、すごく共感できるけれど、世間の目からすると若林は斜に構えて生きているのだろう。
だが、持たざる者はいつまでも持たざる者だし、持てる者は永遠に持てる者だしモテる
この世で1番の内緒話は、正義は大抵負けるし、夢は大抵叶わない。努力は大抵報われないし、愛は大抵消える。
曖昧な、誰もが心の奥底で文字に出来ずとも感じていることを言うと、後ろ指を指される
よく不幸な分だけ幸せなことが起こるとか耳障りのいい言葉が聞こえてくるけど、そんなことは無い。
何も幸せではない自分は、誰ひとり何ひとつ幸せにはできないし、不幸が多いということはそれだけ気分が沈んでるから
幸せを見つける眼差しは、もう地面を見つめたまま歩いている
自分の考えとして、誰にでも何かしらの才能があるなんて立派な嘘だと思っているから、不出来な自分の相手をいつまでもダラダラ一緒に過ごすのだろう。
先に続く長い地面を見つめながら、でも少しずつ重たい頭を上げながら