時間

ここ最近かなり規則的な生活をしている。

インスタントスープだけを1食と数えられるならば、一応1日3食摂っている。1時までには床に就いているし、昼過ぎまで眠りこけていたことも無い。

唯一大学もアルバイトもない日曜日には、気の許せる人と共に出かけたり、運動をしている。

本当に何もせず、小さな画面をいじって終わる1日などない。

だからといって、予定に追われているわけでもない。毎日の生活の中にも自由時間があるから、好きなスポーツを見たり、あてもなくYouTubeを見ているだけの時間もある。

特段容姿にこだわりは無いが、月に1回は同じ所で同じ人に髪を切ってもらってる。


一時の自分から見ればかなり充実した日々を送っている。というより規則的な日々は、周期的に陥っていた自己肯定感の低さによる悩みを、解決できるものだと思っていた。


別に何かが足りないわけではない。しかしなぜか、そしていつからか、「何か」が頭をもたげている。


スポーツの世界では、「難しい試合になる」とよく言う。それは選手の心を引きしめたり、相手へのリスペクトを含んだり、本当に難敵と対峙する時であったりである。

そんな高尚なものではないが、まさに難しい日々を送っている。はっきりと言葉に表せないが、一日が終わって家に着き、家の鍵を置いた時に、どことなく「難しい一日になったな」という思いが湧き上がる。


もう年齢だけ見ればいい大人だと思うので、こんな漠然とした悩みで一々立ち止まらずに、毎日の食器洗いの泡と共に流してしまえばいいのだろう。でも、なまじ自由な時間がある分考えこむ時間が増える。


個人的には、世間話の時に自分から時事の話題を振るのも、簡単に人に弱音を吐くのも、こうやって文章にして見せてるのもめちゃくちゃダサいと思っている。どうせ朝になって振り返ればだっせえなって気づく。

弱音自体、人によって感じ方は違うからこそ、自分の弱音のランクが周りの人より低いと感じてなかなか言えない。周りの人間は知らない間に乗り越えてるものを、簡単に乗り越えられていない気がする。

いづれにせよ自分で解決すべき問題なことは十分に理解している。これまでと根本的に違うのは、「何に」悩んでいるかが分からないことである。

 


金や将来、人間関係、日々もっとすべきこと、考えてるだけでは解決しないこと、もう何者にもなれないこと

 


人生は長く、非常に難しい