トラッシュ

時を戻す魔法があるなら、いつに戻るだろうか。

なにか大きなチャレンジが待ち構えていたあの時、失敗したからこそもう一度戻ってやり直したいかつての時、「些細な」というのは簡単でも必ず別の選択肢があったはずの瞬間

個人的にはどんな時でさえ戻りたくはない。今の人間関係が最もいいと思っているし、今までの選択の連続がなければ同じところにたどり着けるはずがなかったからだ。

元気な時には、たらればの話なんかしてもしょうがねぇから、今現在の場所から前に進むしかねえだろ。と高らかに宣言し、だが少し後ろを見ながら歩みを進めていく。

力強い気力や心の余裕がない時でもだいたい同じ。違うのは宣言した後、必ず立ち止まって、そしてある一定時間は確実に動けなくなる。前どころか後ろも見れない、足元を虚ろな目で眺めているタイミングがある。

あれこれ考えててもなにも進まないのは分かってる。

まともな思考してりゃ、普通の人なら、こんなところでつまずかないのも分かってる。

ちゃんと自分の足で歩かなきゃならんのも分かってる。

ちゃんと地に足をつけた生き方をしなければならないと分かってる。

 

分かってるつもりで、自分に何度も何度も言い聞かせながら、地に足をつけて生きているつもりだった。でも足をつける場所も、足自体も実は全部間違えてたかもしれない。でも、ここまできたら、それが正しいものとして認識すること、そしてそれを正しいものにしていかなければならない。たとえそれが本当に間違っていたとしても、強引に推し進めていくしか残された道は無いのだ。解決できるのは時を戻す魔法だけかもしれない。

 

SNSやブログ等で頻繁に目に付く、抱負や宣言、感謝、愚痴や弱みなんて全部噓みたいなもんなんだろうな

指先だけで自分自身に色「のようなもの」を加えられるものなんて、本当に深く、よく考え、精査されたものなわけが無い。

 

よく「絶対に幸せになるぞ」と宣言交じりにつぶやく人がいるけど、自分は首がはねられようとも誰にも言いたくない。

好きな人の言動を真似するという、無個性のカスみたいなことをよくしてるから、1人の時はかつてのTop Gearメンバーのリチャードハモンドが、自作キャンピングカーで指を挟んだ時に「You brave…」とか細い声で自身を鼓舞したシーンを頭の中で思い出す。

もうこの年齢になると励ましてくれる人なんていない、いたとしても人を信じれない自分は中身半分に聞いているだろう。もはや「大丈夫、大丈夫」と自分を励ますしかないんだ。

もう全部ひっくるめて未来への、ハッピーエンドへの伏線だと割り切るしかないんだよとTwitterで見たのが、いつまでも忘れられない。人生というファッキン長いゲームでは、本気で「冗談だろ」と目を背けたくなるようなことなたくさんある。こんな人生が物語なら、とんだ冗談だ。悪い方の冗談だ。

 

なんにも色がついてない、からっぽの箱なら、どんな色も塗れるしどんなものも詰め込める。でも、その色を塗り、そして何かを入れる人間自体が成長していなければ、なんにもならない。

 

ずーっと前からわかってる。こんなことというか、自尊心とか自己肯定感とかで悩むのはこんな年齢の人間がするようなもんじゃないんだよ。

だれもそんな期待をしていないとわかっていながら、そしてほんの少しずつとはいえ、いつか来る人生の終わりに歩みを進め続けている間に、自分の周囲をさばききれないほどの情報量が流れていき、自分とさして年齢も変わらない、なんなら何歳も下の人間が、とんでもないことを成し遂げたりしている。

きっと彼彼女らは、一般人の想像なんてはるか及ばないほど、筆舌に尽くしがたい経験や挫折、挑戦をしてきたのだろう。自分たちは暖かい部屋でのうのうと社会や環境の変化を、高みの見物をしている気分で眺めていたのだろう。

そして今更、自身が何者でもないし、何者にもなれやしないという当たり前のことが、脳だか心だか精神だかのどこかで受け入れられていない自分が世界一みじめになる。

 

絶対ちゃんと、自分の足で立って生きるんだ。何にもない人間だからこそ、自分一人で立てるぐらいの力がないと、自分を見ている自分が情けなくなる。 

人並みの挫折と挑戦と自尊心を持ち合わせて、ちゃんと周りの人を頼れて、心を開き、しっかり自分の正義を持った、明るくまともな人間になりたい。

  

ありがたいことに、こんな人になりたいな、なんて人が周囲にたくさんいるからこそ、全然そんな風になれていない自分にまた落胆してしまう。周囲の人間は比較対象ではないなんて、わかってるけどわかってない自分がいる。

オードリー若林は、ネガティブを止めるのは没頭だと言っていた。自分自身や内面に目を向けるのではなく、外に目を向けることが必要とも書いていた。上岡龍太郎は外に出る、本を読む、人と会って喋ることが重要だと言っていた。

全部全部分かってるんだ、分かりきってることなんだ。たとえどんな靴を履いていても、たとえ裸足であろうとも足を交互に前に出せば進めることは分かってるんだ。でもどうしても前に進めない。

残酷なことに、憧れている、なりたいと思う人間には、まずなれやしない。

それでも憧れている、なりたいと思う人間の言葉ぐらいしか信じれない。

  

歩き方も、なんなら立ち上がり方すら不安だ。

 

誰かに支えてもらう、助けてもらうというのが一番簡単な解決方法かもしれない。でもほぼ人間不信に手足が生えただけの人間な上に、そんな方法でしか立っていられない自分に辟易する。そんなやわなやり方でしか生きられない人間にだけはなりたくない。

 

みんなどうやって生きているんだろう。どうやってつい先日終わった一年を生き延びたのだろうか。自分自身どうやって生き延びたかがわかってねぇ自分は、たとえそれを聞いてもなににも活かせず腐らすんだろうな。

こんなところで弱音を吐き出すような、カスみたいな人間になりたくなかった。でも弱音の吐き方として、飲み込む以外に自分でもできる方法、そして自分でもギリ許せる方法がこれぐらいしか見つかっていない。

こんな面倒くさい人間にはなりたくなかった。元気な時に自分みたいな人間を見たら、鼻で笑って脇をすり抜けていくだろう。たとえ仲のいい友人であったとしても、まともなふりをしているカスの自分は、適当な上っ面だけの対応しかしないかもしれない。

 

変なところで変な風に意固地な自分は、こんな生き方自体が「生きるのが下手くそ」に分類されるのは十分承知している。なんなら「生きるのが上手い」人間が嫌いだ。

 

自分で自分に「なんでこんなことで悩んでるんだろう」と悲しくなる。本当に悲しくなる。

 悲しいと言っても、別に泣きついたりしないし、誰かに迷惑をかけるほどお酒を飲むことも無い。毎日こなすべき家事をいくつかサボって、繰り返し見ている動画や、どうにか今聞ける音楽を流して絶望するだけ。

あーあって。

実家に住んでる時、よく母親が独り言でばっかじゃないのと呟いていた。その度に「なんかやらかしたかな」と自分の身を案じていたが、今ならその気持ちが少しだけわかる気がする。誰かに八つ当たりするわけではない。自分の中で巡り巡った暗い気持ちが、なにかに発散できるはずもなく、独り言として体の外に出ていく。

 

せめて、せめて自分の周りの、自分の好きな人たちの前では何事もないように明るくいたい。

心を許してくれている相手ほど、こんな振る舞いが悲しさを生むことは十分承知している。でもこれぐらいの我儘は許されたい。 

 

一体何を得たんだ。中途半端に膨れ上がった自己顕示欲と承認欲求、強くなった偏見と卑屈さ。自分を諦めさせる力ばかり強くなった。

 

おかしいな、ちゃんと「I DECIDED TO LIVE ALONE」って書かれたiPhoneケースを使い続けてるのにな。

 

おかしいな、このブログの内容全部同じことしか書いてないな、毎回これからは頑張るみたいなスタンスで終わってるのにな。

 

おかしいな、ずーっとおかしいな