あがいて休んで
適当に生きてるなと思う時がある
もちろん一人間として、一大学生として課題を出したりアルバイトに向かったり、そこそこにやるべきことはやっているつもり、つもり
それでも自分を見たときに適当だなぁと思う
周りのちゃんと生きている人間とか、しっかり者の人間を見ていると余計に自分の適当さ、不甲斐なさが際立って見えてしまう。
だからこそそんな適当さを抱えている人間には勝手に親近感がわいてしまう。適当だなと笑ったり、それを悩んでいるなら聞いたり
でもいつもそうだった。自分の気持ちを推し量ってもらって助けてもらって、でもその人は僕の助けなんて必要のないところまで自分で歩んでいて。ありがたいことにこれまで周りの人に恵まれながら生きてきたと思う、他の誰かと比較しようはないし、したくもない。似ている人がいるかもしれないが、確実にその人は他人で違う人だ
自分は考えていること、思っていることを口に出すのがとても苦手で、先輩友人後輩に会ってもすぐにアクションができない。目を合わせて、逸らして、誰かを認識して、もう一度目を合わそうとしたときにはもう視界にはいない。そんなことばかりの日常だ
考えていることがうまく声としてすぐに出せないからこうして脈絡もない文章をゆっくり書きながら消しながら書きながら、せめて文字に起こそうとする
それでも足りない、文字は言葉より便利だが、それでも想像以上に使い勝手の悪いツールだ。使い方を誤れば刃物にも羽毛の無くなった布団にもなる
口下手は損だ。それ以上に人づきあいは難しい
最後に自分の足で、自分から前に歩みだしたのはいつだっただろうか
もう遠い遠い昔のように思えてしまう。
好きな音楽も、洗濯も、時間も、煙草も、うっとおしいぐらいの太陽も、雨も、食器洗いも、感嘆符も、
なんにも自分を救ってくれない。どんな形にせよ足を前に出すのは自分自身しかいないと分かりつつも今日も外の空気と触れ合う