この世
人はなにかに打ちひしがれた時に本性が出るという言葉を誰かから聞いたことがある。
そのなにかに立ち向かう者、新たな別のなにかに立ち向かう者、諦めて座り込んでしまう者
これを読んでる人間がどれに当てはまるかなんてどうでもいいが、自分は座り込むことが頻繁にある。
座り込むと、走りながら立ち向かっていた壁や、共に進んでいた誰かと途端に離れてしまう。じゃあまた進み始めればいいじゃないかと思った人間はたぶん僕と相容れない人間だろう。
座り込むと、今まで進み続けていたゆえ気づかなかった自分の立ち位置に気づく。立ち位置に気づくと、自分という存在そのものに気づく。自分の振る舞いや言動、人との関わりにも
本当は相手への謝罪ではなく、許され慰められるために「ごめんなさい」と言っていること
本当は相手への感謝ではなく、自己満足のために「ありがとう」と言っていること
立ち止まったままではダメなことも何となくわかっている。
でも人生の相談窓口はないし、人生の達人もいない。先導者もいなければ代打もいない
自分という存在を保つには、まず自分がいなければならないのだ
自分を求めている人間がいないこの世は、自分以外の人間で事足りてるから、この自分という存在は不必要なのではないか、と思ってしまう。存在自体が揺らぐ、立ち上がれない日が続く
いつか立ち上がらなければ、でも立ち上がった先にもう自分は必要ないのだろうか
普段自殺なんて言葉軽々しく使っているが、本当に自殺しそうな人は頭の中がどうしようもなくいっぱいになって、僕の想像なんてはるかに超えるほど追い込まれているのだろう。
明日はどこにある
昔サビがつまらないと敬遠していたフラワーカンパニーズの深夜高速が、やけに耳に残る