テレビと正義と

 ここには自分なりの意見を自分の発散という意味で書く、今回はいつも以上に

だから見ていて気分が悪くなったり僕を嫌いになっても仕方がないとしか言えない。たかがイチ意見と流して読んでもらえると嬉しい。でもたかが「イチ意見」として伝えたいことがある。

 

ものすごく個人的な意見だが、テレビは娯楽でしかないと思っている。もちろんいい意味で。笑いをはじめ音楽、語学、その他さまざまなものを電波に乗せて放送している。その、「さまざまなもの」について僕の好きな上岡龍太郎の言葉にこんなものがある

「テレビは素人が芸を見せるか、玄人が私生活を見せるか。その二つに一つしかない」

と。(そしてその番組、引いてはテレビを見ることは視聴者側である自分たちにチャンネル、リモコンという名の選択権があるということ)

 

最近、Twitterをしているといわゆる「ぶっ飛んだ意見」をよく見るようになった。つまり大多数の人間が「まともな意見ではない」と思う意見である。誰かが嘲笑するためなのか大いに賛成するためなのか分かりかねるが本当によく見る。そして気づいたことがある。

 

テレビ局は視聴者を馬鹿だと思って番組を作っている。そして視聴者の中でも馬鹿な視聴者が増えているということ

 

そうじゃないとテレビ局はワイドショーばかり作らないでしょう。確定された、公式が出した声明のみでいいはずなのに、誰が引っ付いた離れた、不仲だの裏でつながってるだの。朝から晩までどのテレビ局でも、独占取材や独自取材と自慢しながら。

そうじゃないとドラマの題名ないしは副題があそこまで中身を暗示させるものではないでしょう。二時間もののドラマなら特に。テレビ局はあんなにもストーリーを暗示させる言葉を付けなければ視聴者は興味を持って、そして中身を理解しながら見てくれると思っていないのだろう。

そして極めつけは「このドラマはフィクションであり、実在の人物、団体などとは関係はありません」である。昼間から警官が銃を撃つことも、頻繁に温泉で湯けむり殺人が起きるわけが無いのは誰でもわかる。しかし、クレームが入るのを恐れて自主的にテレビ局が入れている。

そんなものしか視聴者が見ないと、そんなことまでも書かなければならないと、テレビが日本人の文化的な力を落としているのではないかと思ってしまう。

 

ここまで書くと「テレビ局は視聴者を馬鹿だと思って番組を作っている。」ということが伝わると思う。そして、その視聴者を馬鹿だと思いながら番組を作っているテレビ局が一番馬鹿なのである。

娯楽としての馬鹿は娯楽である。それは笑いにもつながる。しかしその娯楽の域を超えたものが多いのではないか。悪いほうに

 

 

視聴者の中でも馬鹿な視聴者が増えているということ」ということについて

テレビは一家に一台、ないしは複数台の画面から正義を与えている。

テレビは、何も考えずに見ている視聴者に、主に自分の意見も考えも何もない視聴者に正義を与えている。

少し異端な、過激な意見というのは大きく聞こえるものである。なぜなら話している内容が薄いからである。大きな声で言わないとその意見に賛同してくれる馬鹿な人に届かないのである。

そしてその大きく聞こえた意見を、馬鹿な人が、それが世間の、世界の正義として信じてしまう。そしてそれが自分の正義になる。自分の意見、考えがないからこそ与えられた正義をきつく抱きしめながら歩く。

きつく抱きしめているからこそ、反論やほかの意見を理解できないし、しようとしない。正義は一つで、与えられた正義しかないと思っているからだ。賢明な人間にはわかるだろうが、世間には正義が一つなもので埋め尽くされているわけがない。そんな馬鹿なことがあってたまるかというほどである。

 

自分の正義を持っている持っていないにかかわらず、他の意見を聞いて理解する人間がまともな人間なのではないのか。理解した後、その意見に賛成するか反対するか、心変わりするかは当人次第であるが、「聞いて理解すること」と「賛成反対と言うこと」とは違うことを知っている人間がまともな人間なのではないのか。ただ自分の主張を声高に叫ぶことは動物園の動物でさえ、赤ちゃんでさえできる。

 

そうやって他の意見、主に自分に対しての反論に耳を貸せる人間はテレビの中にとても少ないように思う。まじめぶった顔で「コメンテーター」として席に座っている人たちがメインである。まるで私は選ばれた人間ですよという顔をしながら。ただただ反対意見に被さるように自分の主張だけを話す馬鹿な人間が、テレビの中から「ぶっ飛んだ」正義を与えて、それを見てそれのみを信じる馬鹿な視聴者が増えて。

だから「まともな人間」なら疑問を持つ意見が当たり前のように、そして他の正義を馬鹿にしながら世間の大通りを闊歩している。

そしてテレビを見て正義を受け取るだった彼らがSNSという場で「ぶっとんだ意見」を話し、誰かに押し付けている。そんなところをよく見る

 

ではテレビを見なければいいのではないか、そんなことはない。もはやテレビがなければ世の中を理解することも、数多くの意見を聞くこともできない。娯楽も享受できない。そして活字だけでなく表情、行動で物事を聞く、理解する媒体としてテレビは非常に有能である。

ではSNSもやめればいいのではないか、そんなことはない。SNSは活字のみでしか表現できない代わりにテレビより多くの意見を聞くことができる。テレビの娯楽とはまた違った娯楽がある。

 

最後になったが、ここまで書いたことは自分の正義でしかない。信じ込もうと疎もうと、それは読み手次第である。だがこのような意見を持った人間がいることを理解してもらえれば幸いである。