拾得物

たくさんのものを失くしながら歩いてきた。

物理的な意味でも、人生的な意味でも

 

最近失くし物が多い。本当に困る。

そこにあったもの、あるはずだったもの、かばんに入れた記憶まではあるもの

ポケットを探しても、お気に入りのサコッシュをひっくり返しても無いものは無いし、失くしたものはきっとどこかに忘れてきたもので

 

ここ数日の自宅が本当にひどい、散らかり具合が。

物のサラダボウルと化している。ドレッシングの味も渋滞ちう。盆前の下り車線。自宅で死んだら物盗りの犯行扱いになって捜査が一ミリも進展しなくなるだろう。事件は迷宮入り、時効前の14年後におみやさんが復活してくれないと解決しねぇレベル

 

人並みの自尊心とか自信とかが、自分を卑下することで謙虚な姿勢を見せたり、自分への諦めに多用しすぎたせいで軒並み0に近い値をとってるから失くしてしまっている。ほぼそれに等しい

もちろんごく普通の人間だから、自分ならどうにかなるんじゃないかっていう根拠のない自信が、どうにかこうにか立ったままを維持している細い梁の上に乗っかっている。だれでもあるだろう、こんな薄っぺらい自信。困ったことにギリギリ存在しているこの自信さえも信じることができないから、頻繁に路頭に迷うし座り込んでしまう。

 

連絡不精な自分は、かなり友人が少ない。血のつながりのある人たちでさえ関係が薄かったり連絡を取るのが苦手だ。

Twitterなるものをしていると、長期休みで地元に帰って毎日のようにかつて共に学園生活を送った友人と出かけたり、ご飯に行ったという、誰も聞いてない報告をよく目にすることがある。

中学の同期はゼロ、高校の同期でさえ連絡を取っているのは片手で収まるどころか指が余るほどの僕は、ある種の羨ましさを覚える。言葉に表せないが、なんとなく「かなわないなぁ」と。

知らないうちに抱えた指の隙間から落ちてしまっていたのだろうか、自分から捨ててしまったのだろうか

 

でも、失くした物の代わりに得たものもある。1人ゼロサムゲーム成立である。なんて平和な世の中。

それは知らない間に懐に収まっていたり、誰かがポケットに入れていてくれたり、道端に落ちていたり

 

考える時間や、新しい友人や、自由とか、なんかそんなものたち

 

一番大きいのは違いを受け入れる気持ち、心持ちだろうか

文字にすると大げさに見えるけれど、そんな大層なものではない。自分自身はあの人やその人とは違う人間であって、画面の中から得た基準とはただの基準であって、当てはまらなければならないものではないという思い。一見単純なものだろうが、これを得るのに20年は費やした。

「得た!」といっても誰かと比べることはできないものだし、いまだに斜に構えて見たりひどい先入観や偏見のまま見続けているものもある。

 

でも、それでも、少しは変わった気がする。物や人への見方接し方

僕自身これを進歩とは言わない。言いたくない

たくさん色んな物をこぼして失くして見当たらなくて、困りながら、時には泣きべそをかきながら探し回った時間も確かに「自分」であって、疑いようのない自分自身だから。

傍から見ていたら、僕の足が確かに一歩前に進んだように見えるだろうが、その足が履いている薄汚れたスニーカーの汚れすらも自分であり、その道を選んできた自分である。

 

どれだけくそったれな汚れでも、どれだけ陳腐でも自分が得たものに変わりはない。変わらない

 

人はたくさん変わるのだ。