Dawg
自己の存在の必要性を考える時、何も手がつかず、最終的にこの毎日を終わらせようかと思ってしまう。
自分のやりたいこと、好きなことを求めることでその必要性を満たしてくれることもあるだろう。
でも基本的には、人間生きている中で何かしらのコミュニティに属しているわけで
そもそも、自己の存在の必要性があるとかないとか客観的に見ている時点で、自己を見る他者が存在してる気がする。
そうでなくとも、自分の欲求を求めていても、それは自分が生きている価値にはならない。自己満足だけで生きていける人になりたかったのが本音だが、そんな図太い神経もってたら、こんなことでいちいち時間を使わないだろう。Jin doggの言葉を借りれば「俺は俺をやるだけ」の図太い精神だ
生きがいなんてダサい言葉使いたくもないが、無意識のうちに自分が生きていく理由として、「他人に求められている」という意識がその理由の筆頭候補になってくる
他人に求められてるということの意味は、死ぬほど自分勝手だが、単純な頭数、労働力ではなく一個人として求められている感覚が重要だ。塔山忠臣が最後のハチゲキワンマンで、「世間の他の誰でもない、お前が進むことに意味がある」と、がなっていた。まさにその感覚
そしてこの感覚は、結局どこかのコミュニティに属している状態で生まれる。その個人、存在の必要性はその人の人格や人間性から芽生える。
ということはその人格を同じコミュニティの誰かに知ってもらわなければならない。その手段として必要なのがコミュニケーションになってくる。
世界でいちばん厄介なのは人間関係構築のためのコミュニケーションだけど、世界を上手く生き抜くにはそれを上手くやっておかないと、あっという間に虚無になってしまう。
もちろん、初対面で自分を示す過去をさらけだしたりするのは、この年齢になれば上手くいく確率が非常に低いとわかる。結局最初の取っ掛りは表面上の、上辺だけのコミュニケーションが必要になる。
そして、その上辺のコミュニケーションとして1番目立つのが「面白いか面白くないか」で、その先関係を保ち続ける要因になりうる。
みんな面白いやつの周りに集まるのが一番安易で気楽なんだ。
自分は非常につまらない人間だ。面白い話が出来なければ、なにかを経験した訳でもない。ユーモアはないし、ノリが悪けりゃボケもツッコミもできない。ただそこにいるだけで存在を必要とされたがってるから、傲慢な人間である。
最も傲慢たらしめているのは、それらの能力を問われる時をずっと避けながら生きてきたことだ。何かを得る道中には、必ず何かを失わなければならないタイミングが来るのだ。つまんねー奴という烙印を押されるのを避けるあまり、空っぽのまま図体と年齢だけ大きくなっている。
ゆえに自分が居心地がいいと思える人間が、齢20強で片手で収まる数しかいない。しかも一方的に数えた人数だ
だからこそ面白い面白くないの価値観は一番わかりやすく、一番単純だが、全てに効く残酷さがある。
結果的に、自己の存在の必要性は、他者からの自分という存在の必要性に基づくもの。そしてその必要性、数を大きくしていくには存在主張のためのコミュニケーションが重要だ
そしてそれが上手くいかない人、または上手くないのに努力してない人、これは救いようがないものになってくる。
たまにその存在を認めてもらう中で落とし穴になるのが、自分自身だ。歳を重ねる事に誰しも取り繕い、嘘を吐く。自分がそうして生きているからこそ、誰かが自分の存在の必要性を説いてくれる時に、疑心暗鬼になっている。自分の敵は最も自分に近い位置にいたのだ。
散々ここまで思いつくままに、自分の都合のいいように書き連ねている。でも結局みんな分かっていたり、無意識のうちに知っていることを、必死に拙い言葉で取り繕っていることが、自分の考えの本質的な部分を言語化できない無能ゆえのものだ。
また足らないものばかり数えてしまっている気がする。でもそれをフォローできるほどに心に余裕が無い気もする。
ほんとつまんねー人間してる
この世
人はなにかに打ちひしがれた時に本性が出るという言葉を誰かから聞いたことがある。
そのなにかに立ち向かう者、新たな別のなにかに立ち向かう者、諦めて座り込んでしまう者
これを読んでる人間がどれに当てはまるかなんてどうでもいいが、自分は座り込むことが頻繁にある。
座り込むと、走りながら立ち向かっていた壁や、共に進んでいた誰かと途端に離れてしまう。じゃあまた進み始めればいいじゃないかと思った人間はたぶん僕と相容れない人間だろう。
座り込むと、今まで進み続けていたゆえ気づかなかった自分の立ち位置に気づく。立ち位置に気づくと、自分という存在そのものに気づく。自分の振る舞いや言動、人との関わりにも
本当は相手への謝罪ではなく、許され慰められるために「ごめんなさい」と言っていること
本当は相手への感謝ではなく、自己満足のために「ありがとう」と言っていること
立ち止まったままではダメなことも何となくわかっている。
でも人生の相談窓口はないし、人生の達人もいない。先導者もいなければ代打もいない
自分という存在を保つには、まず自分がいなければならないのだ
自分を求めている人間がいないこの世は、自分以外の人間で事足りてるから、この自分という存在は不必要なのではないか、と思ってしまう。存在自体が揺らぐ、立ち上がれない日が続く
いつか立ち上がらなければ、でも立ち上がった先にもう自分は必要ないのだろうか
普段自殺なんて言葉軽々しく使っているが、本当に自殺しそうな人は頭の中がどうしようもなくいっぱいになって、僕の想像なんてはるかに超えるほど追い込まれているのだろう。
明日はどこにある
昔サビがつまらないと敬遠していたフラワーカンパニーズの深夜高速が、やけに耳に残る
日曜日
今日は日曜日
毎日どれだけ気に食わないことがあろうと楽しいことがあろうと、必ず巡ってくる曜日。
日常が嫌いだけど好きということをいつも言っている。流れる日々の中で新しい発見とか小さな幸せとか見つける好きな部分。でも時間に、日々に追われながら過ごしたり、嫌だけどやらなきゃならないことが明日も明後日も待ってる嫌いな部分。
自分的には日曜日は他の曜日よりも特別で、アルバイトがない、大学の講義がない曜日
一日24時間全てが自分の時間の日
もちろん次の日から始まる月曜日、新しい週のために準備をする日
そんな、回り回る日常の中で、昼に起きようが早朝に起きようが、一日一食で済まそうが三食作ろうが、自分の勝手が最大限まかり通る日
毎週月曜日から土曜日まで、日曜日に憧れを持ち続けながら生きているわけじゃないけど、毎日に追われ続けて朝起きた時に少しホッとしたり明日から続く毎日に幻滅したりする日
そんな日曜日、最近は毎週外に出かけてた分、家に同じ街に居続ける日曜日になんとなく違和感とつまらなさを感じている
たまにはこんな日曜日があってもいいかなと楽観的に捉えたりするけど、物足りなさは無くならないもの
やらなきゃいけないことがずっと月曜日で待ってるからどこか遠くに出れないということもあった
特別な日曜日に、特別な彩りを
いつもの日常に、いつもの光を
あと数時間の日曜日
やらなきゃいけないことをやる
来週はどう過ごそうか
どんな色が加えられるだろうか
誰かが僕の知らない色を加えるのだろうか
自分で新しい色を探しにいくのだろうか
難しいこと
旅行によせて
週末に1人で出かけた
何の得にも、何も生み出さないのにTwitterにべたべた写真載せてたから知ってた人もいるだろう
1人で、ライブだのフェスだのじゃなくて、ただの旅行として出かけたのは半年ぶりぐらい
正直行先なんかはどうでもよくて、人とか物に、日々が、生活が溢れてきたら、現実逃避でどこかに行きたくなる。いや、逃げたくなると言うほうが正しいのだろうか
1人の旅を自分探しの旅なんて言う人間がいるが、僕からするとそんな自分探しなんて自宅で1人の時に死ぬほど考えられるだろう。と思ってしまうので、たぶんその人も体よく現実逃避がしたいだけだ
自分でも薄々気づいていた。周りに言われて確信した。よく自分の感情を押し殺していると
この年になるまで気づかなかったし、それほど自然としていたし、たぶんこれはもう変わらないだろうと思う。永遠に自分の欠点になるだろう。生き方次第では才能になるかもしれない。ただの「そういう人」で終わるかもしれない。そんなことはどうでもいい
別に旅行に出かけた理由が、誰々を嫌いになったとか、嫌なことをされたとか、そんなことは全くなくて
ただ現実逃避とか、自分のわがままや身勝手さを出したくなったとかが重なったら、どこかに行きたくなる。
そんな小さなエゴが、回る日々の中で日常に押しつぶされている気持ちが、積み重なる課題からの逃避の心が、この体には収まりきらないほどに溜まっていた。
だからこそ旅行中は好きなだけ自分勝手に行動した。
朝飯を食べ損ねた代わりに通りすがりの何も知らないカフェに入ったり
朝でも夜中でも写真を撮りたい景色や物があったら、車を無茶なUターンをしてでも撮りに戻ったり
全く知らない街をカメラだけ持って1時間ぷらぷらしたり
時間に追われないようになるべく時計を見なかったり
普段は引かない境内の100円おみくじが出した小吉にしょげたり
いつもは車で流さない音楽を暴力的な音量で流したり
それでも時間も、体力も、お金も足りなくて
行けなかったところもあった
心残りもある
1人で旅行をしていたら、もちろん寂しいという気持ちが生まれることもあった。高速を走りながら本気で寝そうにもなった。
でも1人で思いついて、1人で動いて、1人で考えて、1人で困って、1人で妥協して、1人でどうにか諦めの心の形を変えて埋め合わせて
本音を書くと大変な上に、しばしば寂しくなるけれど、非日常を全身に吸い込んで、現実逃避の心を消化して。
前回1人で旅行をした時のブログと同じようなことをまた書いてしまった
そんなことは一番どうでもいい
明日からまた、長い長い現実が始まる。
あいまい
価値観というものがある
たぶん水とか朝ぐらい身近なものだけど、喜びとか時間ぐらい曖昧なもの
抽象的なものの代表だろう
価値観が違うとかでバンドが解散したり、人同士が別れたり
曖昧なくせに身近にあって、実はいろんな方面に影響を及ぼしてるから想像以上に厄介だけど、それで助かったり面倒くさいことを避けれたり
しかもこいつが人によってかなり差があるもので
嫌いだけど嫌いになれないヤツ
価値観の合う合わないはどこで生まれるのだろうかと考えることがある
たぶん誰かを好きになったり嫌いになったりするポイントもこのあたりだろう
誰かを好きに、嫌いになる点は人によってさまざまで、その人なりの思い出や経験によるものが大きいだろうけど、たぶんそのへんも価値観。価値観万能説
誰かを好きになる時、趣味が同じなんてのはこのご時世きっとめちゃくちゃ珍しいものだろう。インターネッツのお陰で何か一つのジャンルが好きでも、その中から色んな向きに広がっている
もはや趣味は個性を生むと同時に、人を選ぶものなのだ
だからこそ、そこで価値観が顔を出す
ご飯の食べ方であったり、挨拶であったり、人付き合いであったり全部価値観が根底にあって、価値観が合うもの同士がうまくいく。
たぶんそう、もちろん例外もあるけど
上辺だけの付き合いならまだしも、長い時間一緒にいればいるほど価値観のずれが大きな溝をつくる。
その溝に気づいた瞬間どちらかが妥協や歩み寄りという名の橋を架ければ話は済むが、その橋の強固さはお互いが共に過ごした時間に比例するのだろう。知らんけど
価値観が似ているもの同士はきっととても過ごしやすく生きやすい。
価値観は性格の面も持つのだろうか
自分と似ているなと思う人は勝手な親近感を覚えるし、一緒にいるて、なんとなくいいなと思う
いつもこうだ。考えすぎてまとまらない、行動が起こせない
この文章だって最初から最後までまとまりがない
でもきっと価値観ってこれぐらい曖昧なものなのだろう